証明写真機のカーテンの内側でだけ、少しだけ正直になれる話
四月も後半になると、街の色が少しだけやわらかくなる気がします。朝はまだ少しひんやりしているのに、昼間の光はもう春というより初夏の気配で、駅前の植え込みのつつじも、気づけばちゃんと咲いている。
新年度が始まったばかりのころの「よし、がんばろう」という顔が、少しずつ「まあ、ほどほどにやろうかな」という顔に変わっていく時期でもありますよね。二十四節気でいえば穀雨のころ。春の雨が土をうるおして、次の季節の準備を静かに進めるころです。人間も、たぶん同じなのだと思います。
そんな季節になると、私はなぜか証明写真機のことを思い出します。履歴書、免許証、マイナンバー、資格の申し込み。人生の節目でも日常の手続きでも、あの小さな箱は突然必要になるのに、ふだんは驚くほど意識の外にあります。
自動販売機や公衆電話とちがって、用事がない日は、本当に視界に入ってこない。なのに、いざ必要になると、あの青やグレーの小さな個室だけが、妙に人生の本気を引き受けてくれる。
私は昔から、証明写真があまり得意ではありませんでした。盛れないから、というのもあります。けれどそれ以上に、あの「盛れなさ」には言い訳が効かない感じがあるからかもしれません。
ふだんの自撮りなら角度でどうにかなるし、明るさも加工も味方してくれる。けれど証明写真機の前に座ると、そういう小細工があっさり無力になる。そこにいるのは、今日の自分の輪郭と、今の生活がそのままにじんだ顔です。
別に大げさな話ではないのに、私はあのカーテンを閉める瞬間だけ、少し背筋が伸びます。外から見れば、ただ駅のすみやスーパーの駐車場の端に置かれた小さな箱なのに、中に入ると急に静かで、ちょっとだけ世界から切り離される。
あの短い数分が、私はなんだか好きです。今日は、そんな「証明写真機のカーテンの内側」の話を書いてみようと思います。たぶん誰もわざわざ記事にしないし、検索してまで読みたい人も多くはないはずです。でも、だからこそ書きたくなるテーマって、ありますよね。
◆>>歯石取り、着色落し、口臭ケアなど目的に応じた施術を2,500円からというお手頃な料金で提供 スターホワイトニングクリーニング証明写真機は、たった数分だけ借りられる“ちゃんとする部屋”なのかもしれない
春の街の片隅で、あの小さな個室だけが妙にまじめに見える
証明写真機って、置かれている場所が少しおもしろいなと思います。駅ビルの脇、スーパーの駐輪場のそば、家電量販店の端、パスポートセンターの近く。どこも「ここに長く留まる場所ではありません」という顔をした空間ばかりなのに、証明写真機だけは、そこにいる人に数分だけ「ちゃんとして下さい」と言ってくる。
コンビニでお昼ごはんを選ぶときの私は、わりと適当です。ドラッグストアで洗剤を買うときも、正直そこまで真剣ではない。けれど、証明写真機に入る直前だけは、前髪を指で整えて、口角をどうするか迷って、肩の位置まで気にし始める。たった数百円で、数分で終わる行為なのに、急に「社会に提出する自分」を作らなければならなくなるからでしょうか。
四月下旬のこの時期は、とくにその感覚が強い気がします。新しい名刺を持った人、新生活でまだ少し緊張が抜けていない人、何かを始めるつもりだったのに思ったより疲れている人。
街の中に、そんな空気がまだ少し残っているから。春は出会いの季節と言われるけれど、本音では「自分を出す季節」でもあるんですよね。しかも、自分を出すと言っても、素の自分ではなく、社会に見せても困らない顔の自分。
私は30代になってから、この「見せても困らない顔」を作るのが、少しだけ上手になりました。若いころは、とにかく明るく見えたいとか、かわいく見えたいとか、そういう欲の方が前に出ていた気がします。
でも今は、かわいさよりも、疲れて見えないこと。元気すぎるよりも、感じが悪く見えないこと。ちゃんとして見えるけれど、頑張りすぎて見えないこと。そのあたりの、すごく地味で、でもとても現実的なバランスを探すようになった。
それって、なんだか今の私たちの暮らし方にも似ている気がします。映えたいわけじゃない。でも、くたびれすぎてもいたくない。誰かより上でいたいわけじゃない。でも、自分の機嫌くらいはちゃんと取りたい。令和を生きる女性の「ちょうどよさ」って、案外こういう細いところに出るのかもしれません。
だから私は、証明写真機を見ると少しだけ安心します。そこには「盛れてるかどうか」より「生活できているかどうか」が写るから。前日の寝不足、口元の乾燥、でもそれでもちゃんと来ました、という感じ。うまく言えないけれど、あの小さな個室は、数分だけ自分の生活態度が顔に出る場所なんです。
盛れないのに、なぜか嘘もつけない数分間がある
証明写真の何がそんなに独特なんだろう、と考えることがあります。たぶん、あれは「きれいに写るための写真」ではなくて、「責任を持ってこの顔で生きています、と差し出す写真」だからなんですよね。
自撮りなら、気分が乗らない日は撮らなくてもいい。納得いかなければ消せばいいし、そもそも誰にも見せなくてもいい。でも証明写真はちがう。この一枚は、何かに添付されて、誰かの手元に渡って、しばらくは自分の代わりをする。私がここにいない場面で、「これがこの人です」と説明する役目を持つ。そう考えると、あの無機質な背景の前で一瞬だけ緊張するのも当然かもしれません。
しかも、証明写真機の中って、意外と静かです。外では買い物袋の音がしていたり、車が出入りしていたり、駅のアナウンスが聞こえたりするのに、カーテンを閉めると、音が一枚だけ遠くなる。あの感じが、私は妙に好きです。個室なのに、完全なプライベートではない。安心できるのに、少しだけ逃げ場がない。あの半端さが、人を正直にするのかもしれません。
私は以前、転職サイト用の写真を急いで撮りに行ったことがありました。仕事帰りで、髪も少しへたっていて、メイクも朝の勢いを失っていて、本当なら撮り直したい日でした。でも締切があったし、その日のうちに済ませたかった。写真機の椅子に座って、画面に映る自分を見たとき、正直ちょっと笑ってしまったんです。「ああ、今日の私、ちゃんと疲れてるな」と思って。
でもその顔は、不思議と嫌いではありませんでした。目の下にうっすら生活があって、口元には無理をしていない感じがあって、まぶたの重さまで含めて「たしかに今の私はこうだよね」と思えたからです。
若いころだったら、絶対に撮り直していました。もっと目が大きく見える日を選んで、もっと髪の調子がいい日に出直していたと思う。でもその日は、「まあ、これでいいか」ではなくて、「これがいいかも」と思えた。
大人になるって、きっとこういうことなんですね。最高の自分を差し出すことより、今日の自分に署名することの方がしっくりくる瞬間がある。きらきらしていなくても、ちゃんと今の私として写っているなら、その一枚には意味がある。
とはいえ、証明写真機の残酷さも知っています。光の当たり方ひとつで顔色は変わるし、姿勢が少し前に出るだけで妙に不機嫌に見えるし、口角を上げようとすると逆に不自然になる。
だからこそ、あの数分は不思議です。うまく見せたいのに、うまく見せようとしすぎると失敗する。まるで人間関係みたいだなと思うことがあります。頑張りすぎるとこじれるし、気を抜きすぎると雑になる。ちょうどいい距離感は、いつも簡単じゃない。
春から初夏へ向かう今の季節も、少し似ていますよね。新しい環境に慣れようとして頑張った四月の前半を過ぎて、ここから少しずつ本当の疲れが出てくる。ゴールデンウィークが見えてくるぶん、気持ちが緩んで、でも緩んだ瞬間に「あ、私ちょっと無理してたかも」と気づいてしまう。
その感じが、証明写真の顔にも出る。だから私は、あの写真をあなどれません。ただの顔写真なのに、わりとちゃんと生活が写ってしまうから。
◆>>美しくなるためのサプリメント SNS話題沸騰中の【グラミープラス】はこちらいちばん失敗した一枚が、最後にいちばん好きな顔になった
ここまで読むと、私は証明写真機にすごく哲学を感じている人みたいですが、実際のところ、先日もごく普通の用事で撮りに行きました。資格更新の書類に貼るためです。春の強い風の日で、駅前のハナミズキが少し揺れていて、スカートの裾が落ち着かなくて、私は「こういう日に限って撮りたくないんだよな」と思いながら小銭を入れました。
画面に映った自分は、案の定ちょっと微妙でした。髪の表面がふわっと浮いているし、なんとなく「午後三時の顔」をしている。午前中のしゃきっとした感じはもうないし、夕方の諦めもまだない。いちばん中途半端な時間帯の、いちばん説明しづらい自分です。
それでも数回のカウントダウンのあと、写真は容赦なく出てきます。あの「もう変えられません」という速さ、毎回すごいですよね。私は機械から出てきた写真を見て、思わず小さくため息をつきました。ひどく失敗ではない。でも、よくもない。完璧に“ふつう”。ブログに載せるなら絶対に選ばない、誰の記憶にも残らない顔でした。
でも、そのときです。写真の下に、見慣れないおまけの一枚が混ざっていました。たぶん印刷のタイミングの関係だったのか、シャッターが切れるほんの少し前の、まだ表情を決めきる前のカットが、細い試し刷りみたいに端に出ていたんです。そこに写っていた私は、まっすぐカメラを見ていませんでした。ほんの少し視線がずれて、口元も半端で、ちゃんとしていない。証明写真としては完全に失格の顔でした。
なのに、私はその一枚から目が離せませんでした。
そこにいたのは、「社会に提出する私」ではなくて、たぶん「提出する前の私」だったんです。うまく見せようとする前、感じよくしようとする前、疲れていないふりをする前の顔。少しぼんやりしていて、でも妙にやわらかくて、想像していたよりずっと悪くなかった。
きれいじゃないのに、親しみがある。整っていないのに、なぜか本物っぽい。その顔を見た瞬間、私はびっくりしました。ずっと欲しかったのは、ちゃんとした一枚だと思っていたのに、本当に好きだったのは、ちゃんとしていない方の私だったんだと気づいたからです。
そして、ここからが、自分でも少し笑ってしまう展開です。
資格更新のために撮ったはずの“ちゃんとした証明写真”は、結局、規定サイズを私が勘違いしていて使えませんでした。完全に撮り直しです。あれだけ姿勢を正して、口角を迷って、小銭まできっちり用意したのに、まさかのサイズ違い。大人としてどうなんだろう、と一瞬だけ天を仰ぎました。
でも、失敗したはずのおまけの一枚だけは、財布の透明ポケットに入れたまま、まだ捨てられずにいます。
読者の方は、ここで「じゃあその一枚をブログのプロフィールに使ったの?」と思うかもしれません。私も最初はそうしようかなと考えました。
いかにも物語としてはきれいですし、“ありのままの私を選びました”みたいな終わり方は、たぶん少し拍手ももらえる。でも、現実はもっと地味で、少しだけ可笑しいです。
その写真、私はいま、本のしおりとして使っています。
しかも挟んでいるのは、小説でもエッセイでもなく、節約レシピ本です。人生って、ほんとうに、こういうところが好きです。自分の本音に気づいた感動の一枚が、最終的に挟まっているのが「鶏むね肉を飽きずに食べる工夫」だなんて、誰が予想するでしょう。
だけど私は、その少し拍子抜けする結末に、かなり救われています。きれいにオチなくていい。感動が、そのまま感動らしい形で保存されなくてもいい。大事な気づきが、生活感たっぷりのページに挟まっていてもいい。むしろその方が、私の人生らしい。
作家になりたい、もっといい文章を書きたい、ちゃんと伝わる人になりたい。そんなふうに思う日ほど、私はつい「提出できる自分」を先に作ろうとしてしまいます。
でも本当に文章になるのは、たぶん、その前の顔なんですよね。まだ整っていない、少し間が抜けていて、でもちゃんと息をしている顔。証明写真機の端に偶然出てきたあの一枚みたいに、予定外で、規格外で、なのにやけに本当らしいもの。
四月の終わりは、春の勢いが少し落ち着いて、自分の疲れや本音が見えやすくなる季節です。ここから八十八夜に向かって、空気は少しずつ初夏へ移っていく。
新しいことを始める決意より、続けるための力加減の方が大事になってくるころです。だからもし今、自分をちゃんと見せることに少し疲れている人がいたら、証明写真機みたいな小さな場所を思い出してほしいなと思います。盛れなくてもいいし、完璧じゃなくていい。ただ、その日の自分にちゃんと署名できれば、それはもう十分にまじめです。
そして、もしかしたら本当に愛着がわくのは、提出用に選ばれた一枚ではなく、選ばれなかった方かもしれません。人生って、案外そういうふうにできているのかもしれないですね。





