好き避けしちゃう自分がしんどい日に読んでほしい|本命にだけ不器用になる恋愛の違和感

会社を出たのが、たしか二十一時を少し過ぎたころだった。
エレベーターを降りて外に出た瞬間、昼間のぬるさがまだアスファルトに残っていて、春になりきれない夜の空気が、ストッキングの足首のあたりにだけまとわりつく。駅までの道にあるコンビニの前では、フライヤーの油っぽい匂いと、誰かが買ったばかりなのか甘いカフェラテの匂いが変に混ざっていて、その生活感がちょっとだけしんどかった。
こういう日は、誰にも会いたくないわけじゃないのに、ちゃんと会える気もしない。
電車を待つホームでスマホを見たら、どうでもいい仕事の連絡にはすぐ返せるのに、好きな人からのメッセージだけ、通知を開いて、閉じて、また開いて、三回くらい意味もなく繰り返していた。
「おつかれ、今日どうだった?」
たったそれだけの文なのに、こっちは急にちゃんとした人間でいなきゃいけない気がしてしまって、語尾ひとつ決められない。なのに昼休み、ほぼ話したこともない後輩には、やたらやさしくお菓子を分けていた。
ああいうの、なんなんだろう。
好きな人には素直になれないのに、どうでもいい人にはびっくりするくらい感じよくできる現象、ほんとうに名前をつけたい。
家に帰って、バッグを床に置いたまま、コートも脱ぎきらないうちに部屋の照明だけつけた。ワンルームの明るさって、疲れている日に限って容赦がない。
朝あわてて出たせいで、ベッドの上には開いたままのパーカー、机には飲みかけの水、洗っていないマグカップ。誰も見ていない部屋なのに、ちゃんとしてなさが並んでいるだけで、なんとなく責められている気分になる。
冷蔵庫から麦茶を出して一口飲んで、またスマホを見る。返信はまだしていない。
既読もつけていない。
ここまでくると、もう返したいのか返したくないのか、自分でもわからない。
不思議なのは、好きな人に冷たくしたいわけでは全然ないことだ。むしろその逆で、できることなら一番感じよく、一番かわいく、一番ちょうどいい距離感でいたい。
でも、そう思えば思うほど、なんだか動きがぎこちなくなる。変なタイミングで敬語っぽくなったり、妙にあっさりした返しになったり、あとから見返して「なんで急に他人行儀なの」と自分で引くような文を送ってしまう。
たぶん、好きな人の前では、自分が雑に扱われるかもしれない可能性まで一緒に立ち上がってしまう。期待しているぶんだけ、勝手に傷つく準備もしてしまっている。何も起きていないのに、ひとりで身構えて、ひとりでバランスを崩している。だいぶ間抜けだなと思う。
そのくせ、どうでもいい人には驚くほどやさしくできる。
職場のほとんど接点のない人に「それ、重そうですね、持ちますよ」と自然に言えたり、あまり興味のない飲み会の誘いに「楽しそうですね」と笑って返せたりする。あれは余裕なのか、演技なのか、自分でもはっきりしない。ただ、失うものがない場面では、人はずいぶん親切になれるらしい。
いや、人は、というより私か。
私だけかもしれないけれど。
この前も、好きな人には送れなかった一言を、ほとんど知らない相手には簡単に言っていた。
髪を切った同僚に「似合ってますね」と言えたのに、ほんとうは一番言いたかった相手の変化には気づかないふりをした。気づいていたのに、言わなかった。言った瞬間、こちらの温度が伝わってしまう気がしたから。
そういうところ、本当に面倒くさい。
素直になれない、って書くと少し可愛げがあるけれど、実際にはただの挙動不審に近い。好き避け、なんて言葉で丸めるには、年齢もまあまあちゃんとしてきてしまったし、もう少し大人の方法があるはずだろう、と思う。思うだけで、だいたい毎回同じところで転ぶ。
たぶん昔から、好意がある相手の前では、自分が急に見栄っ張りになる。
どうでもいい人の前なら、失敗しても「まあいっか」で済むのに、好きな人の前だと、ちょっとした言い間違いも、変な沈黙も、帰り道に何回も再生される。あのとき、あんな返しじゃなくてよかった。あそこで笑わなければよかった。
いや、笑ったほうが感じはよかったかもしれない。そんな編集会議を、誰にも頼まれていないのにひとりで開催して、ひとりで反省する。
たぶん、好かれたい気持ちの量と、不自然さは比例する。
ほんとうに嫌になる。
SNSを見ていると、恋愛がうまい人って、もっと軽やかに見える。
会いたいなら会いたいと言えて、うれしいならうれしいと言えて、寂しいなら少し寂しいと、変にこじらせず口にできる人たち。画面越しのその自然さを見ていると、同じ大人のはずなのに、こちらだけ体育の見学みたいな顔をしている気分になる。
でも、あの軽やかさにも、見せていない逡巡くらいはあるんだろうか。
送信ボタンを押したあとに、布団の中で「重くなかったかな」と天井を見ている夜くらい、あるんだろうか。
そう思いたいだけかもしれないけれど、何も迷わない人ばかりだったら、それはそれで少しさびしい。
この現象に名前をつけたい、と思うのは、名前がつけば少しだけ扱いやすくなる気がするからだ。
「今日はあれが出てるな」みたいに、自分のなかの妙な反応を、少し離れた場所から見られるようになる気がする。
恋の緊張、と呼ぶにはありきたりだし、好意の裏返し、だと少しきれいすぎる。
もっとこう、情けなくて、でもわかる感じの名前がいい。
好きな人限定・親切不全。
本命前だけ会話バグ。
好意過多による平常心欠乏。
どれもひどい。ひどいけれど、ちょっと笑えるぶんだけまだましだ。笑えないままだと、ただの不器用として胸の奥に沈んでいくから。
思い返すと、どうでもいい人にやさしくできる日の私は、たいてい少し疲れていて、少し寂しくて、それを悟られたくない日でもある。
感じのいい人でいると、自分の輪郭が少しだけ整う。雑な一日でも、人に親切にできた、という事実があると、全部は崩れていない気がする。
だからあれは、相手へのやさしさというより、自分のための応急処置に近いのかもしれない。
それに比べて、好きな人の前では応急処置が効かない。表面だけきれいにしても、中のざわつきがそのまま出てしまう。
隠そうとして、余計に変になる。
大人になってもこんなことあるんだ、というより、大人になったから余計にあるのかもしれない。変に経験がついて、変に守りがうまくなって、そのぶん素直さだけが取り残される。
さっきから未読のままにしていたメッセージを、もう一度開く。
短い文の向こうに、相手がどんな顔でこれを打ったのかまではわからない。深い意味なんてないのかもしれないし、こちらが勝手に重くしているだけかもしれない。
でも、その「勝手に重くしてしまう感じ」こそが、たぶん今日の本体だった。
傷つきたくないのに、近づきたい。
近づきたいのに、平気な顔をしてしまう。
平気な顔をしたあとで、ひとりでしょんぼりする。
これって、私だけなんだろうか。
それとも、ちゃんとして見えるあの人も、案外似たような夜を持っているんだろうか。
好きな人の前でうまく話せないことより、うまく話せなかったあとで、自分にまで少しがっかりしてしまう感じのほうが、ほんとうは地味に堪える。
どうでもいい人にはあんなにやさしくできるのにね、って、自分で自分に突っ込みたくなる。
その器用さ、そこじゃなくてこっちで使ってよ、と。
結局、返信はまだ打ちかけのままだ。
「今日はちょっと疲れた。でも、そっちは?」
そこまで書いて、また止まる。
素直って、短い文のことじゃないのかもしれない。
窓の外を見たら、向かいのマンションのベランダに干しっぱなしのタオルが、夜風で少しだけ揺れていた。
また、明日になれば、うまく笑える気もする。





